五島の歴史
1980年頃、当時の上五島町の相河地区の開拓村近くの埋立地にて、古代人の衣服に付けていた青銅製のボタンらしきものが発見された。発見者は県立高校教諭の計らいで、佐賀県の考古学者に鑑定を依頼した。その結果、古代人の衣服に付けていたボタンではないだろうかという回答が帰ってきた。青銅製のボタンは直径2cm程のお椀型で真中に小さな穴が開いており、鋳型の痕もクッキリ残っていた。尚、現物は当時の県立高校教諭に発見者が寄付したと言う。[要出典]
上古時代から平安時代まで
五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は済州島や朝鮮半島などに近く、また最近でも中国やベトナムからの難民を乗せた船が何度も五島に流れ着くなどしており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。
遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。
古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南に離れて浮かんでいる男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市に入るが、この島も女島灯台がおかれるなど近年に至るまで重要な島であった。これらの事からも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
740年(天平12)に大宰少弐藤原広嗣が乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の五島列島宇久島)で逮捕され、断首されている。 876年(貞観18)にはそれぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。
中世以降から五島藩の成立まで
その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が朝鮮との交易などを通して五島の支配勢力となっていき、また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。 種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる倭寇の王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。
五島列島北端の宇久島(うくじま)から興った松浦党の宇久氏は鎌倉時代から勢力を伸ばし、やがて五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。 その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。この五島氏の領地は江戸時代になると五島藩(福江藩)となり、明治維新に至るまで続いた。 今日も福江の中心部に美しい石垣が残る石田城は異国船の往来が増えた幕末に築城されている。
玉之浦納の反乱
朝鮮出兵における五島勢
藩政時代以後
江戸時代の五島列島は大半が五島藩の領地となった。この地域では鮪漁が盛んだった。同藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領(交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。
このほか、小値賀島とその属島については平戸藩(松浦氏)の領地となっていた。
明治に入り、富江領は本藩(五島藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。
その後、明治時代になると鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬崎灯台や女島灯台などが作られている。 昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。 この間、昭和37年には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。
近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市と上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が進む地域が多い。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。
五島のキリスト教史
1566年にイエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島し布教を行っている。 これを受けて純玄の父はアルメイダを信頼しキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後からの秀吉の禁教令や江戸幕府による同様のキリスト教禁止政策によって一度衰退している。秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、秀吉による迫害が始まると多くは棄教するか隠れキリシタンとなった。キリシタン(クリスチャン)への迫害が強まったこの時期に長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在五島の福江島には彼を記念して堂崎天主堂が建立されている。
このような衰退があったものの、その後の江戸時代に五島藩では江戸時代に大村藩からの隠れキリシタン移民を開拓民として受け入れた。多くは大村藩内の隠れキリシタンであったようだが、五島藩ではキリシタンに比較的寛容な政策が取られたため、五島は今日に至るまでクリスチャンが比較的多い地域となっている。
五島藩はクリスチャンに寛容であったとはいえ、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではない。 また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、奥まった小さな入り江などに集落を作った例が多い。 秀吉の時期からの五島の信徒にせよ、大村藩などからの移民キリシタンにせよ、五島のクリスチャンは迫害の時期にあっては隠れキリシタンとしてこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。江戸時代の末期、長崎の大浦(大浦天主堂)で信徒発見といわれる歴史的な事件が起こり200年以上に渡って潜伏して信仰を守り抜いてきた長崎の隠れキリシタンがその信仰を明らかにし始めると、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に浦上四番崩れと呼ばれる悲惨な宗教弾圧を引き起こした。この時期には五島のクリスチャンも弾圧され、福江島の隣の久賀島では200名の信徒がわずか12畳の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な牢屋の窄(ろうやのさこ)事件が起こっている。
このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のクリスチャン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と教会(教会堂)を建てた。これらの教会は規模こそこじんまりしているが、長崎にある日本最古のカトリック教会であり国宝の大浦天主堂建立のの直後といえる時期に建てられ既に100年以上の時代を経ている建物も多く、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のクリスチャンの心のよりどころとなっている。
現在、五島の多くの人がクリスチャンというわけではないが、五島人にとって小学校からクリスチャンのクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、クリスチャンと仏教徒の間に宗教上の争いなども特にない。 五島最大の福江(五島市市街地)の町の中心にもよく目立つ教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。
(wiki)
|